マクロ経済は「お金」ではなく「社会全体」を設計する学問
マクロ経済(国家経済論)は、単なるお金の帳尻合わせではありません。
国家経済を、「予算をどのように配分するか」という会計論だけで理解しようとすると、本質を見失います。
仮に、お金の収支だけが経済のすべてであるならば、最も優れた経済体制は計画経済、すなわち社会主義経済になります。
国家が国民生活のすべてを管理し、配給を最大化すれば、お金の効率だけを見れば最適解になるからです。
しかし、二十世紀の歴史は、その結論を否定しました。
社会主義経済は、国民への配給を重視した反面、市場経済の活力を十分に活かすことができず、技術革新や生産性向上の面で限界に直面しました。
市場経済という競争原理は、人間の創意工夫を引き出し、新しい商品・製品・サービスを生み出す原動力だからです。
したがって、国家経済論の目的は、市場経済を否定することではありません。
市場経済を適正に機能させながら、社会全体の商品・製品・サービスの質と量を最大化することであります。
国家予算は「奪い合うもの」ではない
近年、「政治活動費を削減して少子化対策費へ回すべきである」という議論をよく耳にします。
一見すると合理的な主張のように思われます。
しかし、国家経済論の立場から考察すると、この議論には重要な視点が欠けています。
政治活動費とは、政治家が政策を立案し、国民の意思を集約し、民主政治を維持するための社会的サービスです。
一方、少子化対策費もまた、将来の人口構造を維持するための社会的サービスです。
両者は対立するものではありません。
どちらも国家経済に必要な公共サービスなのです。
問題は、「どちらへ予算を回すか」ではなく、
それぞれが十分に機能し、社会全体の価値を高めているかどうかにあります。
仮に少子化対策費だけを増額しても、保育士、教育、住宅、雇用、地域社会などの制度が充実しなければ、少子化対策というサービスそのものは向上しません。
予算だけでは経済は動きません。
経済を動かすのは、人・制度・技術・組織、そして提供される商品・製品・サービスそのものです。
お金は尺度であり、経済そのものではない
なぜ私は、お金の帳尻合わせだけでは経済を説明できないと考えるのでしょうか。
それは、貨幣価値が常に変化しているからです。
日本では、一九九〇年代以降、長期間にわたりデフレ経済が続きました。
さらに円高局面では、円の国際的購買力も上昇しました。
同じ一万円札でも、一九九五年と二〇二五年では購入できる商品・製品・サービスは異なります。
つまり、
一円という数字は一定でも、その価値は常に変化しているのです。
したがって、
「平均所得が五百万円になった。」
「GDPが何兆円になった。」
という数字だけを見ても、経済の豊かさは判断できません。
重要なのは、
その所得で、どれだけ質の高い商品・製品・サービスを享受できるか
ということです。
私はこれを、国家経済論の最も重要な視点の一つであると考えています。
「売上」ではなく「経済厚生」
例えば、ふるさと納税制度があります。
「自己負担二千円で返礼品が受け取れるから、所得にはほとんど影響しない。」
このような説明がなされることがあります。
しかし、この議論も金額だけを見ています。
経済の本質は、
何円売れたかではありません。
どれだけ有用な商品・製品・サービスを国民が享受できたかです。
返礼品として地域の特産品が流通し、地域産業が活性化し、消費者の生活が豊かになるのであれば、それ自体が経済厚生の向上です。
経済とは、人々の生活を豊かにする営みであり、お金はその交換を円滑にするための手段にすぎません。
ミクロ経済とマクロ経済は正反対になる
ここで、ミクロ経済とマクロ経済を明確に区別する必要があります。
ミクロ経済では、
売上、給与、報酬はプラスであり、
費用、支出はマイナスです。
これは企業経営や家計において当然の考え方です。
しかし、国家全体では事情が変わります。
ある企業の費用は、
別の企業の売上になります。
ある人の支出は、
別の人の所得になります。
したがって、
マクロ経済では、費用そのものが経済活動を構成しているのです。
ここにミクロ経済と国家経済論との本質的な違いがあります。
「費用」は社会の財産である
例えば、選挙を実施するために五億円を支出するとします。
「今回は争点が少ないから五億円は無駄だった。」
この考え方は、ミクロ経済の発想です。
国家経済論では異なります。
選挙制度そのものが民主主義を支える公共サービスであり、その運営能力自体が国家の重要な資産だからです。
同様に、税理士制度についても考えてみましょう。
税制を極端に簡略化すれば、税理士への報酬は減少するでしょう。
しかし、現代の複雑な市場経済を適正に運営するためには、高度な税務サービスが必要です。
税理士が提供する専門サービスもまた、日本経済を支える知的インフラなのであります。
道路や橋梁だけが社会資本ではありません。
法律、税制、選挙制度、教育制度、専門職制度もまた、国家全体を支える公共財の一部なのです。
国家経済論が目指すもの
国家経済論が目指すものは、歳出削減そのものではありません。
また、単純な所得増加でもありません。
国家全体で、より高度な商品・製品・サービスを生み出し、国民がそれらを安心して享受できる社会を実現することです。
少子化対策、教育、医療、公共事業、政治活動、選挙制度、司法制度、専門職制度などは、それぞれ異なる役割を担いながら、一つの国家経済を構成しています。
それらを「費用」とだけ捉えるのではなく、「社会全体の価値を生み出す公共サービス」として評価する視点が重要です。
私は、これこそが**「マクロ経済の現実論」**の根本理念であると考えています。
国家経済とは、お金の数字を競う学問ではありません。
社会全体の商品・製品・サービス、制度、知識、文化を含めた総合的な経済厚生をいかに向上させるかを探究する学問なのであります。
