国家経済論のゴール ― 「貧困のほとんどない経済社会」の実現

  これまで本書では、国家経済の構造、貨幣経済の本質、公益経済、絶対的経済力と相対的経済力、そして市場経済の本質について考察してきました。

 では、これらの理論を踏まえた上で、国家経済論が最終的に目指すべきゴールとは何でしょうか。

 一般的なマクロ経済学では、「国民所得(GDP)を増加させること」が政策目標とされます。

 さらに厳密には、物価変動を考慮した「実質国民所得」の増加を目標とする考え方もあります。

 もちろん、それらも経済政策を評価する重要な指標であります。

 しかし、私は、それだけでは国家経済の本質を十分に説明できないと考えています。

 なぜなら、国民所得は景気循環の影響を大きく受けるからです。

 好景気では、本来の経済力以上の所得が計上されることがあります。

 反対に、不景気では、本来有している経済力以下の所得しか計上されないこともあります。

 つまり、国民所得は、その時々の市場環境によって大きく変動する「結果」であり、国家経済そのものの本質ではありません。

 そこで、私は国家経済を、より本質的な視点から捉えます。

 経済活動の究極の目的とは、貨幣を蓄積することではありません。

 人々が、より質の高い商品・製品・サービスを消費し、豊かな生活を送ることにあります。

 したがって、国家経済力とは、

 「国内全体に存在する商品・製品・サービスの質・量の総合力」

 であると考えます。

 私はこれを「絶対的経済力」と定義しています。

 さらに、生産技術の向上や製造コストの低減も、同じ商品・製品・サービスをより少ない資源で供給できるという意味で、国家経済力の重要な構成要素になります。

 つまり、国家経済の本質とは、

 「商品・製品・サービスの質・量を向上させながら、その供給効率も高めること」

 なのであります。

高付加価値産業への挑戦

 では、絶対的経済力を向上させるためには、何が必要なのでしょうか。

 私は、その中心となるものが高付加価値産業の育成であると考えています。

 ここでいう高付加価値とは、単に第三次産業を意味するものではありません。

 また、最新の産業であれば何でも高付加価値というわけでもありません。

 本質は、その産業に高度な知識、高度な技術、高度な研究開発能力が求められるかどうかにあります。

 極論すれば、人類の知的水準そのものを押し上げるような研究開発です。

 ノーベル賞級の研究、最先端科学、応用物理学、応用化学、医学、宇宙工学、AI、量子技術など、人類全体の知識体系を進歩させる分野が代表例であります。

 反対に、技術が世界中へ普及し、比較的低い労働コストでも生産可能となった産業は、時間の経過とともに付加価値が低下していきます。

 かつて世界市場を席巻した家電産業が、その代表例であります。

 さらに将来、自動車産業も同様の道を歩む可能性があります。

 電動化、自動運転、AI制御などが成熟すれば、自動車そのものよりも、それを活用したサービス産業の比重が高まるでしょう。

 つまり、国家経済は常に、

 より高度な付加価値を求めて上位産業へ移行し続ける宿命

 を負っています。

 低付加価値産業を新興国へ移転し、高付加価値産業へ人的資源を集中することは、生活水準を維持・向上させるための歴史的必然なのであります。

新経済への転換

 しかし、ここで私が提唱したいのは、高付加価値化だけではありません。

 さらにその先に、新しい経済社会があります。

 私はこれを「新経済」と呼んでいます。

 別章でも述べたように、現代は軍事力だけで国家を評価する時代ではありません。

 核兵器の登場以降、大国同士の全面戦争は極めて困難となり、世界は共存を前提とした国際秩序へ移行しつつあります。

 現代の戦争は「制限戦争」であり、決定的勝者を生みにくい構造となっています。

 このような時代だからこそ、国家の競争力は軍事力ではなく、経済力、人材、技術力、文化力へ移っていくのであります。

 そして、日本は第二次世界大戦後、日本国憲法の平和主義の下で、世界でも有数の平和国家として発展してきました。

 私は、この歴史的経験を今後の世界に活かすべきであると考えています。

「貧困のほとんどない経済社会」

 私が国家経済論の究極の目標として掲げるものは、

 「貧困のほとんどない経済社会」の実現

 であります。

 これは単なる所得再分配ではありません。

 国家全体の絶対的経済力を高めながら、その成果を社会全体で共有する経済体制であります。

 世界最高水準の技術力を持つ日本だからこそ、この挑戦が可能になります。

 もちろん、その結果として一定の物価上昇や賃金上昇が生じる局面もあるでしょう。

 しかし、高付加価値経済が確立されれば、それを十分に支える経済基盤を形成することができます。

 その上で、高齢者、障害者、子育て世帯、生活困窮者など、社会的弱者に対して十分な生活保障を行うことは、国家経済全体として十分に実現可能であると考えています。

国家経済は「ゼロサムゲーム」ではない

 ここで、しばしば見られる誤解があります。

 それは、

 「働いている人が、働いていない人を養っている。」

 という考え方です。

 一見もっともらしく聞こえますが、私は国家経済全体を考えると、この見方は必ずしも適切ではないと考えています。

 現代社会では、生産技術は飛躍的に向上しています。

 衣・食・住に関する基礎的産業は、大量生産、高度な物流、情報技術によって、過去とは比較にならない供給能力を持っています。

 さらに、高速道路、港湾、上下水道、通信網、医療、教育など、多くの公共財が国家経済全体の生産性を底上げしています。

 つまり、私たちは個人の努力だけで生活しているのではありません。

 社会全体が長年蓄積してきた経済基盤の恩恵を受けながら生活しているのであります。

 したがって、国家経済は一部の人だけが支えているものではなく、長年蓄積された社会全体の資本によって支えられていると理解することが重要です。

 もちろん、社会秩序を維持することも国家経済の重要な前提であります。

 法秩序を著しく乱し、共同体の基盤を破壊するような行為まで無条件に保護することは、国家経済の持続可能性を損ないます。

 その意味で、「貧困のほとんどない経済社会」と表現したのは、社会全体の秩序と責任を前提とした理念であります。

日本から世界へ

 私は、日本がこの新しい国家経済モデルを実現できれば、それは世界に対する一つの指針になると考えています。

 軍事力ではなく経済力。

 競争だけではなく共存。

 対立ではなく協調。

 市場経済を維持しながら、貧困を大幅に減少させ、国民一人ひとりが安心して能力を発揮できる社会を築くこと。

 これこそが、21世紀の国家経済論が目指すべき方向であります。

 私は、この考え方を「マクロ経済の現実論」として提唱してきました。

 しかし、その目的は単に国家財政や貨幣制度を説明することではありません。

 その先には、日本経済のみならず、世界経済における貧困の解消、さらには人類全体が共存共栄できる新しい経済秩序を構想するという、より大きな理念があります。

 マクロ経済の現実論は、経済分析のためだけの理論ではありません。

 人類がより豊かで、より平和な社会へ進むための国家経済論であり、これからの時代に求められる新たな経済思想であると、私は考えています。

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